「『ピッピのもり』も自分たちの暮らしに寄り添う、自分らしさが表れるような菜園にしていければと思う。」
そう締めくくった〈百姓見習記 #1〉。
そのころから菜園が単なる「野菜を栽培する場」だけではないことは言及していたが、周囲のおばあちゃんたちと話していて、気づくことがあった。
今回は近所の人たちと話す中で知った菜園の存在を綴ってみようと思う。
(この記事の骨格は2021年に書いたもので、現在は私が開拓した土地を母が引き継いで菜園を豊かにしてくれている。)
目次
菜園と健康、そして楽しみ
80をすぎたおばあちゃん友達はこんなことを言っていた。
「息子たちにはもうハウス(販売する野菜を育てているハウス)には来なくていいって言われるんだけどね。動いてないとだめだから、畑やってるんだよ。」
そのおばあちゃんは足が悪く、家族にはもう働かなくていいと言われている。それでも毎日必ず菜園に来て、作業している姿がある。黙々と、時折通りすがりの人と立ち話したり、菜園の端っこに座って空を眺めながら休憩したり。
小さなおばあちゃんの姿がいつもあることに、安心する人は私だけではないはずだ。
私たちも頑張ろう、と思わせてくれる。
そして、おばあちゃんたちは「元気でいるために」と言いながら、その作業を楽しみ、管理しているようだ。
自分の畑に対しては「虫に食べられちゃってねえ」だの「今年は生りが悪い」だの様々口にしつつ、私の畑を見ては、最後にちゃんと「収穫が楽しみだね」と言ってくれる。
結局楽しい、好き、という気持ちがあって畑仕事をしているのだな、と彼らと話していると思う。
おばあちゃんを見ていると、農における「楽しい」「嬉しい」という気持ちは、きっとフィジカルな健康だけでなく、心も元気にしているのではないかと思わされるのだ。
菜園と立ち話
地元に帰ってきて畑や田んぼで過ごす時間が増えた中で、一番と言っていいほど喜ばしかったのは近所の人たちとのつながりを得たことだ。
幼いころは子ども同士のつながりや、町内会の集会などはあったにせよ、私たちからしておばあちゃん世代、70代から80代の方々とはなかなか付き合いがなかった。
それが野良仕事をしていると、挨拶をするところからはじまり、何しているのだとか、何を育てているのだとか、そういうことを話しかけてくれる人が多く、自然と顔見知りの人が増えていく。
お花が好きな人とはお花のことで盛り上がったり、畑をやっている人とは畑の話になったり、手作業で仕事をしていれば昔を思い出して語ってくれたり。
「若いのに」という枕詞とともに、様々なことを教えてくれるのも嬉しい。時にはハッとさせられることを言われ、時には元気をもらう。
菜園と花
周囲にいる多くの菜園保持者たちは一角で花を育てていることが多い。
多く見るのは百日草や菊、ダリアなど。菜園の景観をよくするためだけではなく、それらは仏花としての役割を果たす。
「綺麗な色でしょう」「飾ると長持ちするのよね」そんな会話がよく聞こえてくる。
通りかかると「綺麗ですねえ」といつも言うものだから「分けてあげるよ」と何度か株を分けていただいたこともあった。
いただいてばかりでは、と自分で育てたアメリカンマリーゴールドの株を分けると、おばあちゃんは綺麗に咲かせてくれた。
菜園と贈与
近所におすそ分けするための菜園。これもかなり興味深い。
おすそ分けは、「あげたい」という気持ちから与え、「お返しをしたい」という気持ちから与えられるという関係で成り立っている、と思う。
そこにある贈与の関係が、二者の距離をなんとなく近づけ、常にお互いに感謝の気持ちを持たせる。
顔の知っている人が周りにいるというのは、心強いし、安心する。お互いが元気かな、と気にしあうのも素敵だと思う。
私も何度、野菜をいただいたことだろうか。
野菜作りではあまりにも初心者で、おすそ分けできるほどたくさん収穫できない私は菓子を作ってあげることもあった。
そうやって生まれた繋がりは、挨拶を交わすだけの関係よりもより深いものとなった気がする。
身体を元気に保つための菜園。
コミュニケーションの場としての菜園。
仏花を育てるための菜園。
おすそ分けのための菜園。
たくさんの役割、意味が宿る、野菜栽培だけでない、菜園の多面的な機能。
菜園を取り巻くコミュニケーションや繋がりが、私はたまらなく好きだった。
畑にいる時間の大半は、孤独だ。それはそれで瞑想しているような、無我夢中になれる重要な時間なのだが、畑で作業していることによってもたらされる温かな時間もまた興味深く、かけがえのないものであったと振り返る。
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