「フードメモリー」。
それは食べた時間の記憶であり、「おいしい」だけでない思い出の詰まったもの。
今回は昨年訪れた京都での思い出を、心に残る食べ物に付随させて記してみたい。
目次
たこ焼き
旅費を節約するため、京都へは格安飛行機で向かった。到着したのは神戸空港で、そこから電車で京都へ向かうことになっていた。
神戸に行くなら寄りたいところがあると、連れて行かれたのは須磨というところ。なんでも、中学・高校とこちらへ来る用事が何度もあり、思い出の場所なのだそうだ。
私はただ連れて行かれるままに、一緒に水族館へ入った。
水族館を最後に訪れたのはおそらく10年以上前。そういえば環境や自然に興味を持ってから水族館で時間を過ごしたことがなかったことに気づく。
どうして旅に来て一番最初に行くところが水族館なのだろうか、と思っていたのは束の間、入ってみたらなんと学ぶことがたくさんあるのだろうと、海や川の生きものたちに見入ってしまった。多分、隣よりも私の方がじっくり見ていたと思う。水の中の世界の面白さを知った。
集中して生きものたちを1時間ほど見て回ったら、グゥとお腹った。そろそろ昼食の時間か。
昼はたこ焼きでいいかと聞かれ、いいと答えた頃にはもう到着していたそのお店では、お兄さん2人が関西弁で話しながら真ん丸のものを手際よく焼いていた。
狭いイートイン席はカウンターとテーブル席が少しだけ。注文して間もなく、熱そうなたこやきが運ばれてきた。
まず塩と明石焼き風。
普段たこ焼きといったらソースのイメージで、さっぱりとした塩やお出汁につけるたこ焼きは新鮮だった。そしてタコだけでなくこんにゃくが入っているのにも驚いた。
ハフハフしながら、ちょっぴりやけどしながら食べるのがまたいい。
2種類では足りなくて、次はソースマヨネーズにキムチをのせたものと唐揚げが運ばれてきた。それもおいしかった。
でもやっぱりシンプルな塩味が一番だった。「粉もん感」のようなものを感じられて、中のタコやこんにゃくが際立っていたのが忘れられない。
これはまた来たくなるのもわかる。そう思っていたら隣から「また来ます」という声が聞こえてきた。
季節の野菜とピザ
午後、京都に着いて、向かった先は南禅寺。
目的は庭園を見に。別に庭に詳しいわけではないが。
庭の静けさと洗練された佇まいに心を奪われながら、胡坐をかいて庭園の先から照らす夕日を見つめた。
目を瞑る。瞑想なんてしたことない人も、隣でじっと呼吸しているのを感じた。
今思えばそれは、夕食の一皿一皿を感じ楽しむための準備運動だったかのかもしれない。
南禅寺から哲学の道までのんびりと歩き、目的のレストランへ向かった。
名はmonk。
シェフ、今井義浩氏の著書『monk: Light and Shadow on the Philosopher’s Path』を手にしてから、いつか伺いたいものだと夢見ていた。
カウンター席に座り、そのひと時が始まった。
心がすっかりクリアだった私たちは、そこで振舞われる季節の野菜の数々とそれを調理する薪の火を、瞑想の続きのようにぼんやりと眺め楽しんだ。
今井さんやスタッフの方々の働く姿を眺めつつ、自分のこれからも考えながら、あっという間に料理がクライマックスに向かっていく。
はじめの素焼きのピザ生地から、窯で調理されたシンプルな料理の数々、そしてピザ。最後に柿と金柑を使ったデザートを口にして、その時間が終わりを告げようとしていた。
ふと、それまで瞑想の世界にいた自分が、戻ってくるような感覚を覚えた。そして「この季節に来れて良かった」と思った。
冬は、目に見える植物の活動は小さい。冬を越す栽培植物も寒い地上に見せる姿は小さく、色も温かい時の青々とした緑ではなく、一見枯れているのかと思うこともある。
そんな冬に、こうして野菜の美味しさを正面から味わえるというのは有難かった。薪の火で調理するという、無駄なものがそぎ落とされたそのレストランが、季節を感じひと時を過ごすというその行為をより際立たせるように思った。
モーニングコーヒー
宿泊したホステルで目を覚まし、カーテンを開けると日の光が綺麗に差し込んできた。
支度し、1階へ向かう。宿泊者以外も入れるスペースがあり、昼間はカフェ、夜はバーとなっていた。
そこでモーニングコーヒーをいただいた。隣でサンドイッチを頼んで食べていたから、一口もらった。
窓際で、ちょうど日光が降り注いでいる。
朝のなんでもない時間。その時間を共有できることが幸せだということを改めて感じていた。
ふうと一息つき、今日も素敵な日になるんだろうな、と想像していると昼食の話になった。
「今日のお昼は何を食べようか」
「うどんとか?」
「いいね」
たこ焼き、ピザときて、うどん。今振り返ると小麦粉まみれだ。
スタッフの方に聞いてみる。
「おいしいおうどん屋さん、どこか教えていただけませんか」
「ここはとても有名で、絶対並ぶけど間違いないですよ」
教えてもらったなら行かなくっちゃ。
私たちは、並ぶことを覚悟して山本麺蔵を目指すことにした。
うどんとごぼう天
言われていた通り、うどん屋の目の前には人の列があった。
「予約していますか?」
「いえ、していません」
「次からはしてから来てくださいね」
そう言われ、列に加わることになった。
「予約していないならあちらでまず予約を取ってください」と列にも並べない人たちも見かけたから、ちょうどお店が回転するタイミングで、運がよかったのだろう。
しばらく待ってお店に案内される。
カウンター席に座った。感染症対策がしっかり取られているのが伝わる。
そんな中でも目が合うと微笑み返してくれるスタッフの方々に、気が緩む。
程なくして、ざるに盛られたうどんとつゆ、薬味のすりおろした生姜と刻んだネギ、そしてこちらはごぼう天、隣にはとり天が運ばれてきた。うどんにはハサミのようなものが付いていて、長いからそれで切るようにと言われた。
まずおうどんを一口。外がふにゃっとしていて、中はしっかりとコシがある。新鮮だった。
そして熱々のごぼう天にかぶりつく。カレー風味の塩が添えられていた。口の中を傷つけそうなカリッカリの衣に、太く甘いごぼうが包まれている。
カウンターから調理している様子を見ていたら、天ぷらは二度揚げしているようだった。
店主と思われる方が、お客さんが帰るたびに奥のほうから作業の手を止めて出てくるその姿が印象的だった。
日本料理、おむすび
友人で、京都に住んでいる人がいる。一緒にタンザニアに行った、私にとっては姉貴みたいな存在の人。
その人と夕食を食べる約束をしていた。
待ち合わせのお店に行くと「そ」と書かれた文字。7席ほどのカウンター席がコの字になっている、小さなお店だった。
はじめに乾杯。この出会いと、再会と、これから始まる素敵なひと時に。
乾杯して間もなく、おまかせスタイルにした私たちのもとへ次々と料理が運ばれてきた。
魚、野菜、肉。丁寧に手を加えられた、でも飾らない調理で、素材が際立っている。飲んでいる二人を羨ましく思うくらい、日本酒を欲した。
家で作らない、食べなれない料理も、なんだかほっとするように感じたのは日本料理だったからだろうか。
一通り料理が運ばれたあと、料理人が目の前に土鍋を運んできた。
「おむすびを握らせてもらいます」
そう言って手を少し濡らすと、手際よくごはんが美しい俵型に握られる。
結び目の形をした、赤みがかったお皿にちょこんと乗せられたおむすび。手で持とうとするとほろっと崩れてしまうくらい、やさしく握られていた。
店を離れたあと、どうだったかと隣へ問う。
「三人で話して、楽しかったなあ。あなたがそんなに楽しそうに話しているのも初めて見たかもしれない。」
過ぎ去った楽しい時間の余韻に浸りながら、静かになる。そしてしみじみ、
「あのおむすび、あと何個でも食べられたよ。おいしかったな。あと日本酒って使うグラスによってこんなに口当たりが違うんだね。面白いね。」
と返ってきた。
大好きな人達と、食を通じて喜びや楽しみを分かち合う。単純に「おいしいね」と笑い合えることがこんなにも尊いのだと、そう思っただけで涙が出そうになった。
旅もおわり
12月の京都はまだ温かさが残り、床に並ぶ紅葉の余韻と散りそびれた赤と黄色で、賑やかだった。
青蓮院の庭園をゆっくりと歩いていた時、こんな会話があった。
「落ち葉が緑の苔に散りばめられて、それがなんとも美しいね」
「葉が綺麗に木についているのよりもこっちの方が好きかもしれないな」
普段、食の好みやあらゆるものの考え方において共感することの少ない私たちが、また新たに「美しいね」と言い合えるものを見つけた瞬間だった。
私たちは食べ物を食べる時、何気なく口にし、そのままにすることが多い。忙しいとか時間がないとか、そういうことを理由にすれば、その行為はますます軽薄になっていく。
マインドフルに食べること、食の思い出を心に残すこと。
それを毎食行うべきということではないが、時には自分の感じた「フードメモリー」を、言葉にしたり、誰かと語り合ったりすることは意味のあることなのではないかと思っている。
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