この日は一生忘れないだろう
そう思う日が人生に何度あることだろうか。
もしそれが10あるとするならば、今日をその一つに数えたいと思う。
この日が天秤座の満月であったことは後から気づいたことだ。
美と調和、愛が実る満月。
もしかしたら、月のエネルギーを知らずに受けていたのかもしれない。

食という同じ興味を通じて繋がった私たちはこの夜もまた、美味しい食事を求めてレストランに足を運んだ。
一席しかないテーブル席へ案内され、スプマンテとシェフ特製とちあいかスカッシュで乾杯する。
スパークリングワインはあまり体が受け付けず、ノンアルコールでのスタート。アルコールは一杯までと決めている。
きたあかりのエスプーマと塩のパンナコッタ、中にはトウガラシエビが潜んでいる。一皿目から満足度が高い。
フォカッチャとチャバタを美味しいオリーブオイルに付けながらつまむ。手が進むからお腹が空いていたのだと認識する。
ホワイトアスパラガスが大胆に大谷石の皿にのせられ、オランデーズソースを纏っている。アスパラガスの苦味が春を感じさせる。
そろそろアルコールが飲みたくなってゲヴュルツトラミネールをいただく。ライチや薔薇のような香りの液体を、すこしずつ体に入れていく。
ヒラメをジャガイモガレットで包み、サワークリームとサラダで飾られた温前菜と、塩トマトという甘いフレッシュトマトのソースにブッラータがのせられたなんともシンプルで幸せなパスタを、華やかな香りと合わせていく。
メインは私が食べやすいようにと鶏肉に変えてくれていた。彼は仔羊を食べたかっただろうに、皮目がパリッと身はしっとりと焼き上げられた鶏を満足気に食べている。軽めの赤ワインを一口いただいたが、私は柚子スカッシュで十分だった。
口直しのグラニテが美味しい。柑橘を使ったさっぱりとした香りが鶏肉の余韻とまた良く合う。
桜とだけ記載されたデザートの正体は、桜風味のミルクプリンとニョッキに桜の葉のグラニテがかけられていて、桜餅のような一皿。
私の皿には「Happy Anniversary いつもありがとう」の文字。これからもよろしくね、と伝え合う。

目の前では、桜の香りとシェフ特製の蕗の薹チェッロを合わせている。アルコール度数が高いのに、美味しくて三口程分けてもらった。
食後の温かい飲み物に癒されながら、あっという間に二時間半が過ぎていた。シェフとの会話も楽しく終え、レストランを後にした。

バスに乗り、電車に揺られて家へ帰る。少しお酒が入っていい気分だ。
家に着いて、ワンピースからルームウェアに着替えようとする私を、写真を撮りたいからと彼が必死で止める。
ここで写真撮ろうよ、と言われるがままに椅子に座っていると、彼がプレゼントを用意したよ、と言う。
今回はね、手紙を書いたんだ、と言いながらミモザが描かれた封筒を開く。
どういうことか分からぬまま彼が手紙を読んでいるその声に耳を傾ける。少し声が震えていたかもしれない。
「どんなに辛く苦しいことがあっても、乗り越え、日々の小さな幸せを忘れずに、これからも二人で共に歩んでいきましょう。」
そう締めくくり手紙を手渡すと、玄関に消えていく彼。状況を掴めないまま呆然と待っていると、12本の真っ赤な薔薇を抱えて戻ってくる。
薔薇を見つめる。真っ赤な薔薇をもらったのは25歳にして初めてのことだ。

なんだか胸が熱くなっているのを感じたが、驚きで涙は出なかった。
ありがとう、と伝え、気づいた時には跪いている彼が目の前にいた。
僕と結婚してください
輝く宝石が、差し出されている。30秒ほど、状況を把握するのに時間を要した。彼には失礼だが「ほんもの?」と聞いている自分がいる。
目を丸くしている私を見つめながら、早く返事をして欲しいと言わんばかりに心配そうな表情の彼が目の前にいる。
もちろん、これからもよろしくお願いします
そう言葉にするのにかなりの時間を要した。
しばらくして、やっと涙が出てきた。

いつか自分も両親や祖父母のように、誰かと共に人生を歩みたいと思うようになったのは仕事をするようになってからだろうか。
生前、祖父が弱り切っていた時に二人でお見舞いに行った際、祖父の寝ているベッドからパチンパチンと音が聞こえてくることがあった。当時祖父は声が出せず、何かを伝えたい時には手を叩いて知らせていた。祖母が何の用かと聞きに行くと、私たち二人を激励しているのだという。
この人と一緒に生きていくのだと確信したのは、その時かもしれない。もう半年以上前のことだ。
祖父の葬式でもずっと隣にいてくれた。私の口から出る大丈夫が大丈夫でないことを一番知る彼は、強がる私の隣にいてくれた。
輝く指輪を見ながら思う。祖父にこの光が届いているのだろうかと。

関係性の呼び方が変わったからといって、関わり方が変わるわけではない。
それでも安心する自分がいるのは、寄りかかることを肯定されたような気がするからかもしれない。
この日が天秤座満月であったことを偶然に思いながらも、二人で調和しバランスを取りながら歩んでいきたいと心に誓う。
(2024年3月25日のこと)
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