恋というのは、私たちの生活の中において、まるでスパイスのように、時に甘い香り、時に辛み、そんなものを添えてくれる存在のように思う。
私は恋にあまり縁のないまま、大学に入って、入ってからも大して恋愛が実ることはなかった。
フランスでも、デートをしてもピンとこないし、心からつながれる人は、なかなかいないものだと、そんな風に、思ってもいた。
片想い続きの恋愛は、楽しくスリリングである反面、となりにいる人が自分と同じ気持ちではないことに、心苦しくなる。
2019年から2020年にかけて、片想いする側も、片想いされる側も、両方同時に経験することになってしまった私は、戸惑いと、自分のどの気持ちに従っていいのかという迷いと、ただただ心の苦しさに、恋愛の難しさを考えることも少なくなかった。
それでも、今、「大切」と胸をはって言える人がとなりにいることが、何よりの救いのようにも思っている。
岡本太郎さんと敏子さんの著書『愛する言葉』の中に
「いつでも愛はどちらかの方が深く、切ない。」
という太郎さんの言葉があった。どちらもが、100の愛を持ち続けることができたのなら、それは理想的で、幸せで、申し分ないのかもしれない。
でも、恋愛に必要なのは両者が同じ意見を持ったり、同じ深さの愛を持ったりすることではないと思う。相手を受け入れたいと思う気持ちと、相手を想う素直な気持ちと、異なる意見を聞き合う姿勢と、そんなことがきっと私たちを豊かにすると思う。
私はいつか、自分の中で「好きとは?」なんて、途方もない問いをぐるぐると問い続けるときがあった。その時、こんなことが自分の中にぽっと浮かんできた。
「好き」というはグラデーションやバラエティーに富んだ言葉である
私はそれまで、「好き」という言葉を「ドキドキする恋愛」という狭い範囲で使っていた。「好き=100の愛」のようなニュアンスで。
でも「好き」という言葉は多様なんだよな、といつからか思うようになって、それから心が軽くなるのを感じた。
心が温かくなる気持ち、近くにいたいと思う気持ち、大切だと思う気持ち。そんなものだって、「好き」という言葉には含まれているのではないか。
だとしたら、愛の深さが違くても、大きさが違くても、好きであることには変わりない。
極端な片想いでは、パートナーになり得ないかもしれない。でも両方に愛があるのなら、その愛の深さはそんなに大切じゃない。「好き」の意味合いが両者で違くても、それは論点にならない。だって大切な人だということは変わらないから。
他人同士、しかも私の場合は男女、という異性間のお付き合い。人間一人ひとりの考えがあれば、その考えがぶつかることも少なくはない。
人は孤独で、誰かと一緒にいても、その人と話し、その人のことを知れば知るほど、分かり合えないことに気づくことだってある。
それでも、そのぶつかった考えから二人なりの答えを見つけたしたり、お互いの違う部分を尊重したり、そこから学んだりすることはできる。しかもそのプロセスは実に我々を豊かにする。だって、思い切り自分をさらけ出して話さなければたどりつかない、自分の中、奥深くにあるものをシェアすることができるだけで、幸せではないか。そこに違う意見をぶつけられた時、ハッと気づくものがある。それは人間として必要なスパイスのように感じている。
先日、ボーイフレンドからもらったクリスマスのお手紙の中に、こんな言葉が書かれていた。
「共有できる人が身近にいることが、想像していた以上に幸せなことで、違いを感じてびっくりすることもあるけれど、やっぱり毎日が充実したものになっている気がする。」
これを読んだ時、改めて、その人の愛おしさを思った。
私自身も、それを幸せなことだと思っていたから。
一人ひとり、それぞれ穴の開いている部分は異なるけれど、パートナー同士でそのぽっかりと空いた穴を補い合うことができたら、幸せだと思う。
今やSNSで「理想的なカップル」の姿をこれでもかというほど見ることのできる時代。改めて、自分自身の中の大切なもの、価値観、そして「好き」の色合いをも見つめ直してみたいものだ。

多分この写真のグラデーションのように、好きにはピンクも青も、紫も、いろんな色が存在するはず。ずっとピンクではなくて、それが紫に近づいていき、青になっていく姿を自分で観察するのも面白いかもしれないな、なんて。
恋を語るに値しない私でも、季節がら、こうやって文章にしてみたくなった。
それでは、素敵なクリスマスを。
(Thumbnail photo by Brigitte Tohm on Unsplash)
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